クロード・ドビュッシー没後100周年
2018年3月25日は、1918年3月25日に死没したクロード・ドビュッシーの没後100周年です。
こういう機会に彼の音楽を聴いてみましょう。
wikipedia
- クロード・アシル・ドビュッシー
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 – 1918年3月25日)は、フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などを用いて独自の作曲を実行し、その伝統から外れた音階と半音階の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家。
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経歴
- 8歳頃、ピアノを習い始める。
10歳で名門のパリ音楽院(パリ国立高等音楽・舞踊学校)に入学する。当年の合格者はわずか33名だった。22歳まで在籍する。
11歳になる年の(1873年)1月29日にバッハのトッカータ(BWV915)を弾いた際、魅力的な素質と評価されて自信を持ち、ピアニストになることを決意。
12歳の頃、学内のコンクールで第2次席賞を獲得。
13歳の頃、学内のコンクールで第1次席賞を獲得。
15歳の頃、学内のコンクールで第2次席賞を獲得。
14歳、16歳、17歳時のコンクールでは賞を逃し、これらを理由にしてピアニストへの道を諦める。
16歳の頃にピアノ曲のフーガを作曲している。これが現存する最古の作品。
18歳頃、ボヘミア舞曲を作曲し、チャイコフスキーのパトロンだったフォン・メック夫人を介してチャイコフスキーに送ったが「未熟」だと酷評を受けた。
19歳でローマ賞に挑むが予選落ちする。
20歳でローマ賞で2等賞を獲得。
21歳でローマ大賞を獲得。翌年からローマ大賞で授与された「ローマへの留学」をするが、期間を繰り上げて帰還する。
28歳で「ベルガマスク組曲」を作曲する。(「月の光」はこれに含まれる)
(26歳~)29歳で「2つのアラベスク」を作曲する。
52歳で大腸癌を患う。
56歳になる年の3月25日に55歳で死去。
恋愛遍歴
18歳から26歳の頃まで、弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人と不倫。
22歳から24歳頃にかけて、ローマ大賞で授与された「ローマへの留学」を途中で繰り上げた理由はヴァニエ夫人のためとも言われる。
27歳の頃から、ガブリエル・デュポンとソプラノ歌手のテレーズ・ロジェと恋愛。
28歳の頃にガブリエル・デュポンの友人であるマリ・ロザリー・テクシエと結婚。
42歳の頃に教え子の母親エンマ・バルダックと不倫。
43歳の頃にロザリー・テクシエと離婚。これらを理由にイギリスへ逃避行して多くの友人を失う。
46歳の頃にエンマ・バルダックと結婚。
なんてプレイボーイ・・・。
ドビュッシー没後100周年記念CD&DVDも発売
ドビュッシー没後100周年記念として、クロード・ドビュッシー コンプリート・ワークス ザ・センテナリー・エディション 作品全集(CD22枚+DVD2枚)が2018年1月から発売されています。
リストを確認したところ、曲目は全部で531曲ありました。
ドビュッシーの代表作
人気があって、且つ有名な曲を2つ紹介します。
- Clair De Lune
Youtube上での楽曲の検索結果リスト。
邦題は「月の光」。28歳で作曲した「ベルガマスク組曲」のうちの1つ。- Arabesque
Youtube上での楽曲の検索結果リスト。
邦題は「2つのアラベスク」。黒柳徹子の生い立ち、半生を描いたテレビ朝日系列のドラマトットちゃん!で徹子の恋人だったカール・祐介・ケルナーが演奏していた曲。実際に徹子が交際していた相手は、世界的に有名なピアニストの巨匠アレクシス・ワイセンベルクだったのではないかと言われている。理由は以下の共通点から。
- ドラマ内で祐介は指が自由に動かなくなり、車椅子生活で予後をスイスで療養した。
- ワイセンベルクもパーキンソン病を患い、スイスで療養した。
- 年齢が徹子と近い。4歳違い。
- 英語が話せる。(実際には2人は英語で会話していた)
- ワイセンベルクにも来日経験がある。
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